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日本の有名な戦国武将 石田三成について簡単に知りたい方、必見!!

今回は石田三成について解説します。


wikipediaから引用
豊臣秀吉の家臣、関ヶ原の戦いを起こした張本人の石田三成ってどんな人物?

石田三成について覚えておくべき事、3つ
1.豊臣秀吉との関係
2.家臣としての功績
3.関ヶ原の戦い

1.豊臣秀吉との関係

石田三成は1560年に近江(現在の滋賀県)で生まれました。幼少期は寺に預けられ寺小姓をしていました。そこに羽柴秀吉(豊臣秀吉)が喉の渇きを癒しにやって来ました。その時に三成は、とても気の利いたお茶の出し方で(温度、量、器をかえて3回出した)秀吉に『こやつは出来る寺小姓じゃ』と気に入ってもらえました。これが有名な三献茶です。

この出会いをきっかけに秀吉は三成の才能に気づき登用しました。三成は寺小姓だった自分を認めてくれた秀吉に感謝をして人生を捧げました。

2.家臣としての功績

1582年に本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれました。混乱の状況の中で石田三成は豊臣秀吉を支え山崎の戦いで明智光秀を倒しました。その後、秀吉が地位を高めるにつれて三成も頭角を現していきます。

しかし信長の後継者争いで秀吉と柴田勝家が揉めます。1583年に賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で秀吉は勝家を倒します。この戦いで三成は一番槍(開戦時に最初に手柄をあげた人)の功績をあげます。そして三成が仕える秀吉は天下統一を果たしました。

その後、秀吉は甥の豊臣秀次を自害させ家族まで処刑した辺りから迷走します。秀吉は日本を統一した後に海外に目を向けます。2度に渡る朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)を行いますが負担を強いられた各地の大名達の不満が高まりました。その時に三成は軍の規律違反や命令違反をしていた者を厳しく取り締まっていました。他の大名達が秀吉に不信感を抱く中、三成は秀吉を疑う事なく任務を遂行していました。同時に秀吉も三成の言う事を信頼していました。三成の報告で加藤清正、黒田長政、小早川秀秋らが処罰されました。これにより三成に対する不満も高まっていきました。

そして1598年に豊臣秀吉がこの世を去ります。この辺りから徳川家康の力が強大になっていきます。三成は家康に反発し秀吉の息子である豊臣秀頼の味方をしました。その後、家康と三成の対立は顕著になっていきました。そんな中、加藤清正や黒田長政ら7人が三成を襲撃します。この武将達は武断派と呼ばれる軍部を担っている派閥で家康とも繋がっていたと言われています。この襲撃は豊臣秀頼によって難を逃れましたが家康によって五奉行を解任させられました。

こうして三成は政治の表舞台から姿を消していきました。

3.関ヶ原の戦い

三成は打倒家康を諦めてはいませんでした。三成は『家康達は必ず豊臣家を滅ぼそうとしてくる。豊臣家を守るためには家康を倒すしかない』と考える様になります。

1600年に家康の隙を突いて挙兵し宣戦布告します。これが天下分け目の戦い関ヶ原の戦いです。西軍三成10万人、東軍家康8万人だったと言われています。戦局は数で勝る三成が優勢に進めました。しかし以前に三成の報告によって秀吉に処罰された小早川秀秋が寝返り家康の味方をします。これによって強引に集められていた兵の結束力が落ちて三成の西軍は崩壊していきます。

最初は西軍の三成が優勢でしたが、すぐに劣勢になり勝負は1日で決着しました。三成は捕らえられて京都の六条河原で斬首されました(享年41歳)。

三成は最後の最後まで打倒家康を諦めなかったそうです。『豊臣家への忠義を貫いた生涯』でした。

これで石田三成について覚えておくべき事、3つを終わります。
そのほかにも沢山の出来事や人物が関わっていますので興味のある方は調べて見てください。

以上、参考になれば嬉しいです。
ありがとうございました。

関ヶ原の戦いに参戦した宮本武蔵について

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