今回は宮本武蔵(みやもとむさし)について解説します。
天下無双の剣士、日本最強の二刀流の剣豪、60戦無敗の宮本武蔵ってどんな人物?
wikipediaから引用
1.生い立ち
2.天下無双の剣豪
3.天下無双の剣豪になった後
1.生い立ち
1596年武蔵が13歳の時に頭角を現します。当時、播磨で一番強いと言われていた有馬喜兵衛を倒すと決め決闘を申し込みます。当日に武蔵は脇差と左手に薪を持っていました。決闘場所に着くと武蔵は直ぐに襲いかかりました。有馬も刀を抜こうとしましたが、左手に持っていた薪で有馬の手の甲を叩き刀を抜く前に勝負が決しました。
当時の武士には刀一本、左手は使わないと言う常識がありました。有馬は武蔵の右手だけに注意を向けていたので対応が出来ませんでした。常識にとらわれない武蔵の発想でしたが、周りの人々からは卑怯者と言われ強さを認められず村を追い出されてしまいました。
2.天下無双の剣豪
そこで武蔵は『天下無双の剣豪になるには個人で名をあげるしかない』と考えるようになります。そして日本各地の有名な剣士を倒していこうと決意します。まずは京都の名門、吉岡一門を潰す事を決めます。吉岡一門は足利将軍家の指南役として名高い地位を築いていました。1604年武蔵が21歳の時に道場を訪ねます。そして洛外蓮台野(らくがいれんだいの)と言う埋葬地で師範の吉岡清十郎と戦います。この時武蔵は約束の時間にワザと遅れます。それに怒った清十郎は冷静さを失いました。そのスキに武蔵は清十郎に斬りかかります。清十郎も対応しますが一瞬はやく武蔵の木刀が清十郎の腕を砕き倒れます。その時に周りで見ていた吉岡一門の門弟たちが襲いかかって来たので武蔵は一目散に逃げました。
これに怒ったのが清十郎の弟、伝七郎です。数日後、果たし状が武蔵の元に届きます。伝七郎は5尺(150cm)の長い刀を持っていましたが、あっさりと武蔵に倒されました。有名な師範を2人も倒された吉岡一門は必死で武蔵を探します。再度武蔵の元に果たし状が届き今度は約束の時間よりも早く行き、待ち伏せをしました。吉岡一門の門弟は数百人来ました。ここでも武蔵は冷静で頭を先に倒せば良いと考え、頭の源次郎を狙います。スキをついて背後から斬りかかり源次郎を倒します。そして逃げます。逃げながら追ってきた剣士を一人ずつ倒しました。吉岡一門との戦いは武蔵の圧勝で終わりました。その後、吉岡一門は道場を畳みました。
武蔵は旅を続け伊賀の国(現在の三重県)鎖がまの宍戸梅軒や各地の名だたる剣士を倒していきます。そして宿命のライバル佐々木小次郎の噂を耳にします。小次郎は越前小倉(現在の福井県)細川藩で剣の指南役をしていました。1612年武蔵が29歳の時に巌流島(山口県下関市)で決闘します。小次郎は3尺の剣を使います。通常は2尺3寸(約70cm)の刀です。さらに『燕返し』を使います。これは、遠い距離から、ある方向に振り出した刀のきっ先をすばやく逆方向にひるがえして瞬時に斬る刀法です。当時小次郎も無敗の剣士と呼ばれていました。
武蔵はまずお決まりの技、『遅刻してイライラさせる戦法』を使います。2時間以上遅刻して船で現れます。小次郎は刀を抜き鞘を投げ捨てます。それを見た武蔵は叫びます。『小次郎敗れたり!勝者であれば、なぜ鞘を投げ捨てん』、遅刻した上に無礼な事を言いました。これで小次郎は冷静さを失い長い刀を武蔵に振り下ろします。きっ先は武蔵の頭部をかすめましたが、武蔵の木刀は小次郎の頭部を直撃し佐々木小次郎に勝利しました。この戦いはフィクションであると言う説もあります。
3.天下無双の剣豪になった後
武蔵は『今からの時代は剣術では無い』と痛感します。そして43歳の時に養子を雇いその子に伊織と名付けました。武蔵はこれまでの経験から『これから大事なのは剣術ではなく知識だ』と言う事を感じていたので伊織に学門を身に付けさせます。伊織は優秀で20歳の時に小倉藩の重鎮に出世しました。
時は流れて武蔵が54歳の時に『まだ戦える』と感じて島原の乱に参加しますが、年齢には勝てず何の手柄も立てられないまま足を負傷し剣士としての生き方を終えます。57歳の時に熊本藩に誘われ細川忠利と剣術や政治の話、水墨画をして1年ほど過ごします。武蔵が60歳の時、霊巌洞にこもり五輪の書を書き上げます。これは兵法書で武蔵の剣術の奥義や心のあり方をまとめた書物です。そして62歳の時、自分の屋敷で老衰のため亡くなりました。
五輪の書はハーバードビジネススクールで経営学のテキストとして採用されていた時期もあり400年以上たった今でも世界的に高い評価を得ています。
これで宮本武蔵について覚えておくべき事、3つを終わります。
そのほかにも沢山の出来事や人物が関わっていますので興味のある方は調べて見てください。
以上、参考になれば嬉しいです。
ありがとうございました。
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