勉強 戦国武将 歴史

戦国時代の有名武将 上杉謙信について簡単に知りたい方、必見!!

今回は上杉謙信(うえすぎ けんしん)について解説します。

wikipediaから引用

敵に塩を送ったと言われている武将
上司にしたいと思う戦国武将ランギングで常に上位の上杉謙信ってどんな人物

上杉謙信について覚えておくべき事、3つ

1.軍神と呼ばれた武将
2.敵に塩を送った
3.川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)

1.軍神と呼ばれた武将

上杉謙信は越後国(えちごのくに、現在の新潟県)出身。謙信の一族には関東管領(かんとうかんれい)と言って室町幕府の代理として関東を治める人物がいた。謙信は他の戦国武将と違って『天下を取る』では無く『室町幕府の秩序維持が大事』と考えていた。

1552年上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)の上杉憲政(うえすぎ のりまさ)が訪ねてくる。憲政は相模国(さがみのくに、現在の神奈川県)の北条氏康(ほうじょう うじやす)に攻められて城を放棄し逃げてきていた。謙信は上杉憲政を保護し上野国に兵を出し北条氏康と戦う。そして北条軍を撃退し城を奪還した。他にも武田信玄(たけだ しんげん)に国を追われた沢山の武将が助けを求めて謙信の所を訪ねてきていた。その度に助太刀して戦い、謙信は合計で70戦ほどの戦(いくさ)をしたと言われている。強すぎて勝率があまりにも高いので、まわりから『軍神』と呼ばれていた。

しかし謙信の越後国が大きくなる事は無かった。それは謙信に天下を取るという考えが無く『秩序を守り、困っている人々の為に戦う』と言う信念があったからだった。

2.敵に塩を送った

謙信はとにかく義を重んじる人物だった。その事が分かるエピソードがある。ライバルは甲斐国(かいのくに、現在の山梨県)の武田信玄(たけだ しんげん)だった。

当時、同盟関係にあった武田信玄と駿河国(するがのくに、現在の静岡県)の今川氏真(いまがわ うじざね)との関係が悪化する。原因は桶狭間の戦いで織田信長(おだ のぶなが)が今川義元(いまがわ よしもと)を討ち取った為、今川家の力が弱まり、それによって信玄が駿河国を攻めるチャンスだと思ったからだった。いきなり攻められたら今川氏真も焦るので、あることをする。それは武田信玄への塩の供給停止だった。信玄の甲斐国は海が無いので塩がとれない為これには困り果てた。それを知った上杉謙信はどうしたか。氏真の行いは卑怯だ。越後国の塩を甲斐国へ送れ、武田信玄とは戦いで決着を着けると言って敵である武田信玄を助けた。この話は本当では無いと言う説もある。

一つ確かな事は、『上杉謙信は敵に塩を送ると噂されるほどの人格者だった』と言う事だ。

3.川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)

上杉謙信には宿命のライバル、甲斐の虎の異名を持つ武田信玄がいた。謙信は越後国(新潟県)、信玄は甲斐国(山梨県)で信濃国(しなののくに、現在の長野県)を境に争っていた。

武田信玄は天下を取る為に室町幕府のある京を目指していたが後ろの上杉謙信が目障りだった。なので信濃国の川中島で戦いは繰り返された。最大の戦いは1561年の4回目の戦いだった。謙信の軍が16,000人、信玄の軍が18,000で千曲川(ちくまがわ)を挟んで20日以上にらみ合った。この戦いで謙信は、武田信繁(たけだのぶしげ)や山本勘助(やまもとかんすけ)などの有名武将を討ち取った。ここで有名なエピソードが1つある。上杉謙信は明け方に1人で武田信玄の本陣を攻めた。とっさに武田信玄が防いで決着はつかなかったと言われている。

結局、川中島の戦いは12年の間に5回行われたが勝負はつかなかった。その後1573年に武田信玄は病気で亡くなる。その時上杉謙信は何と言ったか、
「わたしは最大のライバルを失った。英雄人傑とは信玄のような人物のことだ。まことに惜しい」と言い、涙を流した。

これで上杉謙信について覚えておくべき事、3つを終わります。

今回は、上杉謙信の事を凝縮してお伝えしました。
そのほかにも沢山の出来事や人物が関わっていますので、興味のある方は調べて見てください。

以上、参考になれば嬉しいです。
ありがとうございました。

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